乗蓮寺  縁起


※写真は『江戸名所図会 4巻』より「乗蓮寺」
長谷川雪旦(はせがわせったん)画
天保5~7年(1834~1836)刊 加賀文庫256

宗派は浄土宗。御本尊は阿弥陀如来。
室町時代の応永年間(1394-1428)に名僧・英蓮社了賢無的上人が、草深い板橋の一角、山中村(現在の板橋区仲町「専称院」の辺り)に草庵を結び、人々に浄土宗のみ教えを伝える為に創建したのが、乗蓮寺の始まりです。
その後、安土桃山時代末期から江戸時代の初期の頃までに、「江戸四宿」の一つであった、中山道の板橋宿中宿(仲宿)に移転したと伝えられてます。当初は弧雲山慶學院乗蓮寺と称していました、後に慶學山花岳院乗蓮寺となりました。現在も寺宝として「弧雲」と名付けられた伽羅香木が伝えられています。
天正18年(1590)、小田原北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は、徳川家康に三河など五ヶ国にかえて、武蔵などの関東六ヶ国を与えました。家康は同年7月に江戸に転封となり、すぐに江戸城に入城して領国経営に着手しました。乗蓮寺は、郷主・板橋信濃守忠康(文禄二年・1593年11月21日歿)の菩提寺になるなど人々から信仰を集めており、翌天正19年(1591)11月には家康より10石の朱印地を賜り、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となりました。
特に、寛保3年(1743)4月7日、浄土宗祖法然上人ご生誕の日に際し、八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に参拝、雨宿りをしたのが縁となり、後に将軍の休息「御膳所」に指定されました。
境内の閻魔堂は「板橋のお閻魔さま」として近隣にその名を知られ、多くの信仰を集め、1月16日の「藪入り」には、境内をはじめ、旧中山道沿いに市が立ち、名刹の名を一層高からしめました。境内には「相生杉(あいおいすぎ)」と「女男の松(めおのまつ)」があり、縁結びの寺ともいわれていました。
しかし、第二次大戦中より戦後にかけて国道 17号線の拡張、環状6号線の開設、特には首都高速5号池袋線の建設により、寺域が半減するに至り、現在地、千葉氏の旧赤塚城二ノ丸に移転しました。
昭和46年(1971)より7ヶ年の歳月を費やして全山の移転が完了し、山号も赤塚山と改称しました。

 

 

『江戸名所図会 4巻』より「乗蓮寺」
長谷川雪旦(はせがわ せったん)画
天保5~7年(1834~1836)刊
加賀文庫 256

宗派は 浄土宗 。
御本尊は阿弥陀如来。
室町時代の応永年間(1394-1427)に名僧・英蓮社了賢無的上人が、 草深い板橋の 一角、山中村(現在の板橋区仲町「専称院」の辺り) に 草庵を結び、人々に浄土宗のみ教えを伝える為に創建したのが、乗蓮寺の 始まりです。
その後、安土桃山時代末期から江戸時代の初期のころまでに、 「江戸四宿」の 一つであった、中山道の板橋宿仲宿(中宿)に 移転したと伝えられてます。
当初は弧雲山慶學院乗蓮寺と称していました、後に慶學山花岳院 乗蓮寺と なりました。現在も寺宝として「弧雲」と名付けられた 伽羅香木が伝えられています。 天正18年(1580)、小田原北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は、 徳川家康に三河など五ヶ国にかえて、武蔵などの関東六ヶ国を与えました。家康は同年7月に江戸に転封となり、すぐ に 江戸城に入城して領国経営に着手しました。
乗蓮寺は、郷主・板橋信濃守忠康(文禄二年・1593年11月21日歿)の菩提寺になるなど人々から信仰を集めており、 翌 天正19年
(1591)11月には家康より10石の朱印地を賜り、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院 と なりました。 特に、寛保3年(1743)4月7日、浄土宗祖法然上人ご生誕の日に際し、八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に参拝、雨宿りを したのが縁となり、後に将軍の休息「御膳所」に指定されました。
境内の閻魔堂は「板橋のお閻魔さま」として近隣にその名を知られ、多くの信仰を集め、1月16日の「藪入り」には、 境内をはじめ、旧中山道沿いに市が立ち、名刹の名を一層髙からしめました。
境内には「相生杉(あいおいすぎ)」と 「女男の松(めおのまつ)」があり、縁結びの寺ともいわれていました。しかし、第二次大戦中より戦後にかけて 国道 17号線の拡張、環状6号線の開設、特には首都高速5号池袋線の建設により、寺域が半減するに至り、現在地、千葉氏 の 旧赤塚城二ノ丸に移転しました。
昭和46年(1971)より7ヶ年の歳月を費やして全山の移転が完了し、山号も赤塚山と改称しました。

寺宝 伽羅香木「弧雲」

「伽羅」は梵語(サンスクリット:仏教の生まれた古代インドのことば)の「tagara」多伽羅の略で、香木の中でも最上のものとして「沈香の王」といわれています。
『東大寺正倉院御物目録』に「黄熟香」と記されている「蘭奢待」が特に有名です。
当寺に伝わる「弧雲」は、高さが34.3cm、重さが566gもあり、現在ではこのように大きな「山」と呼ばれる香木はほとんど目にすることができなくなりました。
越南(現ベトナム)伝来といわれ、地中で数百年を経過したものと推測されています。